日本におけるアーユルヴェーダの歴史

[アーユルヴェーダの日本における歴史]

上馬塲 和夫
富山県国際伝統医学センター次長

 アーユルヴェーダの日本における歴史は、紀元6世紀の仏教伝来まで遡る。仏教が伝来した時、 アーユルヴェーダは仏教医学として日本に伝えられたのであった。それ以来、日本人はインドの 習慣をとりいれてきた。その中には、アーユルヴェーダやヨーガの習慣もある。また、日本語で 旦那とか世話などという言葉は、そのころに伝えられたサンスクリット語に由来したものと考え られる。江戸時代に、日本の南方諸島ではインドから伝えれたオイルマッサージが行われていた という。しかし、アーユルヴェーダは、中国から伝えられた漢方医学ほど普及はしなかった。  
  漢方医学は江戸時代や明治時代に繁栄し、その普及は頂点に達した。 が、アーユルヴェーダ が日本で認識されるのは1970年代になってからである。故丸山博大阪大学医学部衛生学教授 は、幡井勉教授らと、インドをおとづれたのであった。その時彼らはグジャラート・アーユルヴ ェーダ大学を訪問し、アーユルヴェーダのすばらしさに心打たれた。
  帰国後、彼はアーユルヴェーダ研究会を設立し、アーユルヴェーダを学び研究することを開始 した。そして、「アーユルヴェーダ研究」を創刊した。それが1970年のことであった。  数年内に、幡井勉教授は、東洋伝承医学研究所&ハタイクリニックを独自に設立し、東洋医学 と西洋医学の統合した診療も開始した。
  また、稲村女史が、単身インドに赴き、権威あるグジャラート・アーユルヴェーダ大学に入学 したのであった。彼女は、5年間のアーユルヴェーダ医師としての教学課程を日本人として初め て終了し、さらには大学院も修了した。
 1980年代に入り、クリシュナ U.K.氏が、日本の岡山大学医学公衆衛生学教室に入り、学位を取 得した後、東洋伝承医学研究所の副所長として、本場のアーユルヴェーダの日本への普及に人生を ささげることとなった。
  彼は、日本語でアーユヴェーダの教科書を何冊かかきあげた。稲村アーユルヴェーダ医師も、グ ジャラート・アーユルヴェーダ大学での教課程を終了した後は、大阪アーユルヴェーダ研究所を 設立し、アーユルヴェーダの日本への普及に精力をささげることとなった。
  1988年には、マハリシ・アーユルヴェーダが、TM(超越瞑想)の普及と共に、日本に取り 入れられた、最初のマハリシ・アーユルヴェーダの講義をうけたのが、私と高橋和巳医師などであ ったが、数年後には、蓮村誠医師、玉城悟医師もマハリシ・アーユルヴェーダの講義をうけること となる。彼らは、インドのラジュー医師始め、マハリシ・アーユルヴェーダの医師から講義を受け たのであった。
  1992年に、彼らは日本マハリシ・アーユルヴェーダ協会を、マハリシ後総合研究所のバックアッ プの上で設立することとなった。1994年になり、東洋伝承医学研究所は、アーユルヴェーダの教 育プログラムを開始した。これは、セルフケアコースと、専門家コースの二本立てであった。主 なる講師は、クリシュナUKであったが、幡井勉、加藤 幸雄、高橋佳里奈、西川眞知子、故橋 本健、上馬場和夫らが補助する形で開始された。
  同じころ、ハタイクリニック、岡本記念クリニック、マハリシ・立Nリニックでも、アーユルヴ ェーダの診療が開始されることになった。  しかし、これらは通院患者のために施設であった。1998年になったやっと、マハリシ・那須クリニ ックや二本松に湯川荘(福島県)が開業し、入院してのアーユルヴェーダ治療が受けられるよう になった。  1999年には、アーユルヴェーダ研究会が、会員数(それまでは500名程度)の定着 を計るためと、公的な認知度を高めるために、「日本アーユルヴェーダ学会」に改称された。
  また、同年富山県に日本で初めての世界中の伝統医学を研究する公的機関、富山県国際伝統医学セ ンターが創設された。それは、主にアーユルヴェーダを始めとする伝統医学の生理学的研究を行 うことを目的としている。
  2001年、21世紀最初の年には、東洋伝承医学研究所は、インド・グジャラート・アーユルヴェ ーダ大学と提携し、日本における分校として正式なアーユルヴェーダの教育プログラムを開始す ることができるようになった。名称を、日本アーユルヴェーダスクールとし、校長には、グジャ ラート・アーユルヴェーダ大学大学院を修了したクリシュナUK氏が就任した。

「日本におけるアーユルヴェーダの現状と将来」より一部抜粋

続きは、アーユルヴェーダ学会ホームページへ
http://www2.begin.or.jp/ytokoji/ayurveda/uebaba/uebabaayu.htm